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ゲームで「飽きる」のは、そんなに悪いことなんだろうか? [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ』シリーズのレビューは、これがラス前、2004年にプレイステーション2で出た『8』について。

先に書いておくと、僕は『8』をクリアしていない。クリア目前、とまではいわないけれど、8~9割は進んだある日、セーブせずに数時間プレイしていると、エアコンと洗濯機と電子レンジとあとなんかいろいろ同時にスイッチが入って、ブレーカーが落ちてしまったのだ。テレビからゲーム機からぜんぶ電源が切れてしまい、その数時間(たしか4~5時間くらいだったような)分がパーになってしまった。それで猛烈にやる気を失ってしまい、その日以降、一度もプレイしていないというわけなのだ。

ブレーカーが落ちるのなんてもちろん不可抗力でしかないんだけど、じつは経験からある程度予見できる状況でもあった。で、それは直接の原因となる何らかの(なんだっけ? もう覚えてないや)スイッチを入れたうちの奥さんのミスといえばミスなんだけど、自分でも驚くほど、それを怒ったり責めたりする気は起きなかった。まあ子供じゃないんだから当たり前なのかもしれないけど、それどころか、やる気を失わせてくれたことに感謝するような気持ちになったのだ。へんな言い方だけど、そのときのやる気の失い方は、ゲームを1本、クリアし終わったときに感じるものと、ほとんど同じ種類のものだった。クリア(じゃないけど「ゲームを終える」という意味ではそう言い換えて差し支えない)を助けてくれて、サンキュー。そういう感じ。どれほど熱中していようとも、誰でも常に心のどこかで感じている、RPGを遊んでいるときの「作業」の感覚が、それだけ僕の中で大きかったんだろうと思う。自分ではプレイしているときにそういう意識はなかったけれど。

シリーズ中、最後までクリアしていないのは、この『8』だけだ。ちなみにリメイク版などを含め、遊んだ回数が1回だけなのは、今のところ『7』『8』『9』。たぶんそれは『7』『8』『9』のせいじゃなく、僕のせいなんだと思うけど。

8 『ドラゴンクエストⅧ 空と海と大地と呪われし姫君』


というわけで、シリーズ中、唯一クリアしていない『8』は2004年11月にプレイステーション2で出たわけだが、僕はPS2のゲーム自体、これと『トルネコ』と『サルゲッチュ』くらいしか持っていないわけで、まず僕自身、このハードを使った表現に圧倒的に慣れておらず、つまり「トゥーンシェイドを採用した完全3D表現」とかなんとか言われても、「おお!」とか「ついに!」とか「やったか!」とか(最初の「おお!」は何の意味もないか)まったく思わず、というか「ああ、あのいかにも”最近のゲーム”って感じのアレね」のような、どちらかといえばネガティヴな反応しかできないことは、言っておかなくちゃならないんだろうな、やっぱり。

面白いのは、巷にあふれる『ドラクエ8』評のほとんどが、この3D表現を心配していたけどいざプレイしてみたら杞憂に終わった、という論調のものだという点だ。いわく、「『ドラクエ』らしさが失われていないか心配したけど、3Dになってもやっぱり『ドラクエ』は『ドラクエ』だった! これぞ新時代の『ドラクエ』! エポックメイキングな名作だと思います!」というわけだ。だが、これってどこかおかしくないだろうか? うまく言えないが、自身が本質的に保守的であることをそのまま表出するのをどこかで恥じていて、それをなんとか肯定しようとしている感じがするのだ。

いや、もっと簡単に言おうか。「自分は何度でも遊べるような深みを持った昔の『ドラクエ』が好きだ」と表明したいくせに、「そんなら無理に新作なんてやらず、『1』でも『2』でも昔のシリーズをやってりゃいいじゃん」と言われてしまうことを怖れているような気がするのだ。でも、何を怖れているんだろうか? いいじゃん、そう言われたって、と僕なんかは思うのだが、でもそれを言っちゃあおしまい、そうなったら「負け」なんだろうな、きっと。

ゲームに限らず映画でも漫画でもなんでもそうだが、こうなると「シリーズ」ってやつが本質的に革新的なものを産み出せるわけがないということが、よくわかってくる。具体的な「期待」に応えることを第一義的に考える「シリーズ」という思想は、具体的な既知の「新しさ」しか提示できない。そして「既知」と「新しさ」というのは、矛盾する概念なのだ。

この『ドラクエ8』には、3D表現以外にも多くの「新しい」システムが導入されている。「スキルポイント」による成長、「テンション」での攻撃威力の増幅、「錬金釜」によるアイテムの作成。それらはゲーム世界を複雑にすることに成功しているし、そのおかげで「飽きさせない」という評価も得ることができているのだと思う。でも、「飽きる」のはそんなに悪いことなんだろうか? 人生でも時折「飽きる」ことがあるように、ゲームでも「飽きる」余地――「飽きる」自分との対決に打ち勝つ喜びとでも言おうか――が残されているべきなんじゃないだろうか? 『ドラクエ』の最初の『1』、リムルダールのあたりでレベル上げをしていたときの、あの「もう飽きた!」という感じ。あれは、そんなに悪いものじゃなかったはずだ。本当に怖れるべきは、もっと本質的な「飽き」なんだと思う。

僕の『8』は、ちょうど「神鳥のたましい」を入手してこれまで行けなかった場所へも飛んで行けるようになったあたりで終わった。そこでぶつりと電源が切られた瞬間、僕は自分がそのゲーム自体に「飽き」ていることを発見したのだ。そしてそんな自分に気づくのは、けっこう悲しくて、さびしいものだった。
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どんな徒労感にだって意味はある [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ』レビューの続きを。『6』と『7』か。ふう。

と、書く前からなんだか疲れた感じになっちゃうのは、いかにも『6』と『7』というゲームにぴったりな気分だと思うが、どうなのかな? 少なくとも僕は、この2つのゲームのことを思い返すと、疲労感というかなんというか、いや思い切って言っちゃえば、徒労感のようなものが胸の中によみがえってくる。この言葉は、いわゆるゲームを酷評するときの典型的な決め言葉の一つだが、僕もまあ、そういうつもりで使っている。でもその理由については、じつはゲーム側のせいにはしたくないのだ。それはたぶん、僕の問題なのだ。

僕は「このゲームはダメなゲームだと思う。なぜかというと……」という言い方で語りたいわけじゃない。このゲームをプレイして徒労感を感じたことで、僕は自分がどんなやつなのかを少しだけ深く知ることができた。それは、たとえば自分がニンジンが苦手だとか酒に弱いとか、そういう個別の嗜好よりは、発見したことで自分の全体像を把握するのにちょっとは役に立つことだったりしたのだ。

6 『ドラゴンクエストVI 幻の大地』


スーパーファミコンの末期、1995年12月9日発売のソフト。初代プレイステーションの発売がこのちょうど1年前、1994年12月3日なのだから、その「スーファミ最後の大作」ぶりがよくわかる。僕がゲーム業界に入った(というか出版業界か。ゲーム雑誌の編集者になった、ということ)のが1996年2月だから、まさにそのころの作品だ。超うろ覚えだが、たしかクリアしてから入ったはずだ。

パラレルワールドのような対称性を有する表(現実)の世界と裏(夢)の世界を行き来しながら、小さなストーリーの解答を重ねて進んでいくそのゲームの流れのわかりにくさ、細切れ感はよく批判の対象とされるが、でもじつは、それは職業やキャラクターなど、過剰に肥大したゲームシステムとのバランスという意味では、当然ともいえる方向づけだったんじゃないかと思う。ストーリーが印象に残らないことを減点ポイントとして挙げるのは一面的な嗜好の押し付けになるような気がする。それよりは、ストーリーとシステムのバランスを結果的に放棄して、とにかくここで採用したゲームシステムが何を可能としてくれるのかを目一杯見てみようじゃないか、というような気概。それを正面から受け止めることができるかどうか、もっとあいまいな言葉でいえば(わざわざあいまいにするってのもヘンだが)、そこに「ノレ」るかどうか。そこが試されているんじゃないだろうか。で、僕は「ノレ」なかったわけだ。

ここで提示されたゲームシステムは、まずモンスターを普通に仲間にできることも含め、使用できるキャラクターを目一杯に増やし、そのキャラクターたちが就ける職業を従来より(『3』よりってことだけど)格段に増やし、そしてそれぞれの職業に「呪文」だけでなく「特技」という苦し紛れのアビリティを加えて、肉体派の職業でも魔法のような効果を持つ攻撃その他が可能になるという、要するにやろうと思えばなんでもやれる、作ろうと思えばどんなキャラでも作れる、限りなく自由度を高めたものだ。

その自由すぎるシステム自体は、どんなストーリーをも自発的には生み出さないし、つまりどんなストーリーとも本質的にはかみ合わない。というか相乗効果のようなものは期待できない。なぜならば「物語」というのは、その性質上、不自由なものに決まっているからだ。

僕がこの『6』で思い出すのは、『シムシティ』をプレイしている感覚に近い。システムのみが与えられ、その中でなにか大きく、有機的なものを組み上げていく感じ。いうまでもなく、『シムシティ』は僕の大好きなゲームだ。そして『ドラクエ6』と『シムシティ』では、決定的に異なる点がある。「最終形」だ。

『シムシティ』で僕たちが味わう自由さは、ついにはこの「最終形」で表現されることになる。箱庭世界における「自由」が何かを生み出すことで、自分の中で現実の世界でも「自由」の価値を高めることができる。何かを生み出すための小さな勇気が湧いてくる。ゲームっていいな、と思える瞬間だ。

だが『6』の自由さが僕たちを連れて行くのは、誰がやっても同じ「最終形」でしかない。どのキャラも重要な呪文や特技を等しく身につけ、途中経過はさておき(そしてその途中経過自体は、ものすごく楽しい)どっちにしても最後はマックスに近い能力パラメータを得る。それは、宇宙のエントロピーの増大、究極の熱平衡を思わせる。最後はすべてが均等にならされ、どんな運動もストップしてしまう、死の世界だ。そこまでの膨大な途中経過の運動は、すべて「徒労」となる。

ゲーム批評的には、たぶん僕は『6』にRPGという足枷を、いやもっといえばストーリーという前へ進むためのエンジン、つまり足自体を思い切って捨て去るべきだったのだ、と言いたいんだと思う。でもたぶん、それはもう『ドラクエ』ではない。なにか別のジャンルの、別のソフトでしかないし、それにもし最初からそういうものが提示されていたとしたら、僕はこの『ドラクエ』じゃない『6』を、まさにそれが『ドラクエ』じゃないという理由でプレイしていなかったはずだ。そしておそらくここがいちばん大事なんだと思うけど、もしそのありえたかもしれない理想のソフトをプレイしていたとしても、こうして後に「徒労」について深く考察する機会はなかっただろう。それはなんというか、今より少しだけ、つまんない未来だったような気がしないこともないのだ。

7 『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』


で、『7』である。

発売延期を繰り返し、結局のところ前作からじつに5年も経った2000年8月の発売。この『7』が唯一プレイステーションでの発売だが、すでに半年前にはプレイステーション2が発売されていたあたりは、前作『6』とスーパーファミコンとの関係と同じだ。なんというか、開発に(開発者サイドの予想をもはるかに超えて)時間がかかったことが、こんなにもわかりやすい形で表現されたゲームソフトもなかなかないんじゃないだろうか。そしてゲームの内容も、ああ、これは時間かかるわとため息をつき、開発の労を想像しただけで徒労感が襲ってくるような常軌を逸した大ボリュームと難易度と複雑さに満ちていた。

「そんなの言い訳にするのはおかしい」というのは確かに正論だ。だがしかし、この『7』のようなソフトは、そうした発売に至る経緯も含めて「プレイ」するべきソフトなんだじゃないだろうか、とも思う。作品だけを単体で論じることにほとんど意味がないというか。それではいちばん大事な部分を「プレイ」できない、とでもいうか。なんなら、たとえば今、このゲームを入手してプレイしようとしている人のために、そのあたりの経緯を効果的な形で表現した取扱説明書か、もしくは動画かなんかが入ったディスクを一枚、付けるとか。いや、これはけっこう本気で言ってるんだけど。冗談ではなく、そういうことをしないのならば、いっそのことこのソフトは絶版にして、新たにプレイできないようにするというのもまた、この『7』という作品にまつわる「表現」の延長線上の選択肢の一つなんじゃないだろうか、と思う。

ああ、なんかこの『7』がとてつもなくつまらない、当時の状況も鑑みなければこの21世紀の世においてはとてもプレイに耐えられるものじゃない、とでも言ってるみたいだな。でも、そういうことを言いたいわけじゃない。『7』には実際、たくさんの力業的強引さやそれゆえの綻びなどが散見され、僕自身、そこはなんとかうまいところに落ち着かせてほしかったと思っている一人だが、それとは別の問題として、僕にはこの『7』こそが『ドラクエ』の最高傑作だ、と断言する人の興奮もまた、リアルに感じることができるのだ。こうした両極端な評価(そして数の上では酷評のほうが圧倒的に多い)を得てしまうような作品は、ゲームに限らず音楽でも映画でもよく見られる現象で、それ自体はどちらかが説得されるべきだとは思わない。だが、その両者の断絶を橋渡しするヒントの一つが、この「発表当時の状況」なんじゃないか、ということなのだ。

これはあくまで推測というか仮定というか妄想でしかないが、僕にはこの『7』の、誰よりも開発者の意気込みを強く感じることができる。大容量、ムービーだって入っちゃうCD-ROMメディア。スーファミなんかとは比べ物にならないくらい表現の幅を広げてくれるプレイステーションというプラットフォーム。『ドラクエ』シリーズも『1』から数えて、ずいぶんタイトルを重ねてきた。『3』で導入した転職システムは、『6』で目一杯にまでその可能性を広げ、完全に手の内に入れた。『4』以降はすっかり主人公以外にも魅力的なキャラクターを立てることができるようになったし、『5』でチャレンジした、深く感動的な人間ドラマのストーリーはとても高い評価を得た。核になるシステムとストーリーを離れてもなおユーザーを楽しませる「やり込み要素」の組み込み方も、もうわかった。俺たちにはできる。この『ドラクエ』をさらなる高みへ、究極の完成形へ導くことが。あとは、国民的ソフトとなったかわりにハードさ、とんがった部分を失ってしまった『ドラクエ』を「ヌルい」などと呼ぶ輩に、ガツンと一発、食らわしてやるべきなんじゃないだろうか。『2』のように、「本気」になれるやつで。

そして、僕には強く感じることができるのだ。開発を進めるうちに、「うわ、これちょっと望みが高すぎたんじゃないか?」と焦りを強くしていく気持ちを。そして、出来上がってみたものに対して、これこそが作ろうとしていたもののはずなのに、何かが違う、何か間違ってしまったような戸惑いを。そういう「気持ち」をちょっとでも感じようとすることなく、ただ作品だけを単体でプレイするなんて、それじゃまるで、ただのゲームじゃないか! いや、実際そうなんだけど。でもね。

ここには、120点を本気で目指して、結局60点になっちゃったという「創作」の軌跡が、生々しい傷跡として残っている。いや、この60点というのは仮で、僕個人のはなはだいいかげんな印象による点数でしかない。人によって、それは90点だったり45点だったり10点だったりするみたいだし、それは当然のことだ。だが、それが何点だろうと、120点を取れなかった時点で、創作者にとってはすべて0点なのだ。この『7』は、たぶんそういうソフトなんだと思う。そしてそういう作品に出会うことは、ゲームだろうと音楽だろうと映画だろうと、そう頻繁にあることじゃないと思うのだ。

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ゲームとリアルと「不自由さ」 [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ9』は宝の地図とかクエストとかクリア後のお楽しみがいっぱい! みたいな話をよく聞くけど、エンディングを見たあとはぜんぜん触ってない(笑)。たぶんこれって年齢的なものが大きくて、僕が15歳なら間違いなくまだやり込んでるんだろう(少なくとも当時の僕にこれを与えていたら絶対にそうなる)けど、もし15歳でも今と同じようにクリアしたあとは放り出しているとしたら、それはたぶん、当時の15歳と今の15歳との違い、世代の違いなんだろうと思う。どっちが幸せなのか、みたいな考え方はあえてしないけれど。

軽~く書くつもりが思いのほか重たいものになって、当然ながら書くのにも時間がかかってしまい、なかなかこのシリーズが終わらない。書くのは楽しいけど、早く終わらせたい。なんだか『9』をプレイしているときと同じような感覚だけど。

おまけに今回の記事、テキストエディタを使ってちょうど半分書いたところで数日、止まっていて、久しぶりに続きを書こうとして何を思ったかそこまで書いたぶんをデリートしてファイルを上書きしてしまったのだ。あれだね、間違ってゴミ箱から削除したファイルを復元する手立てはいろいろあるけど、上書きしたファイルの、その上書き前の内容を復元することって、ほとんど不可能に近いんだね。パソコンに関するたいていのトラブルはがんばればなんとかなると思っていたけど、これはかなり盲点だった。もちろん、これを機にすぐにエディタの設定を、バックアップファイルを作成するように変えました。泥縄とはまさにこのこと。

では続きを。

5 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』


ここからはスーパーファミコンでのリリース。ようやくギリギリでファミコンに間に合った世代の僕にとって、このへんからはゲームそのものにリアルタイムでついていくほどの優先順位を与えなくなっていくころだ。ゲーム業界は猥雑な賑やさと巨大産業的な洗練を急速に獲得し、当初の暗闇で手探りで明かりのスイッチを探すような緊張感を失って、先人たちの組み上げたフォーマットに則った製品作りが幅をきかせていく。既視感だらけのベースに、グラフィックやサウンドなどの「進化」要素が乗っかっていく。でも、それはゲームに限らずどんなジャンルにも起こることで、その厳しい安直化と洗練化のヤスリがけに耐えられたものだけが、ジャンルとして生きながらえるのだ。そして当時の僕(20代前半)は、まさに勃興したばかりのゲームではなく、ロック・ミュージックや当時はポスト・モダン花盛りの文学や思想など、そうした時の風化作用を力強く潜り抜けてきたコンテンツを発見し、それに夢中になっていた。ありていに言えば、ゲームよりも楽しいことを見つけたのだ。

『5』の発売は1992年。僕はたぶん、その3年くらいあと、『6』が発売されるくらいのころに、遅まきながらプレイしていると思う。時期は定かではないが、バンド活動も煮詰まっていてバイトで生活しながらぶらぶらしているのもどうかと思うようになっていたある日、ふと『5』をプレイしていないことを思い出し、中古屋に走って買ってきた、その状況だけは妙にリアルな感じで覚えている。最高に幸せだけど、最高につらかった時期だ。でもゲームにのめりこむって、まさにそういう感覚だと思う。

『5』は、アンケートをとれば恐らく『ドラクエ』シリーズ中最も好きな作品として真っ先に名前が上がることの多い、いわゆる「名作」だ。壮大な設定の中に、父子の物語や結婚などリアルな「人生」を感じさせるストーリーがうまく組み込まれているため、「お話」感の強い作品だという断定をよく見かけるが、それはたぶん『3』で導入され、この次の『6』にも登場している職業システムがここでは採用されていなくて、ゲームシステム面が比較的スタンダードだったからということが大きいのかもしれない。ただ、その代わりにモンスターを仲間にできるようにすることで、パーティー内でのキャラクター選択の自由度は担保されている。

というようないかにもゲームのレビュー的な説明よりも、僕にはこの『5』について誰も言っていないことで、言ってみたいことがある。それは、このゲームをプレイしているときにユーザーに科せられる「不自由さ」についてだ。

誰も言わないが、僕がこの『ドラクエ5』をプレイしていちばん印象に残ったのは、いくつかの不自由さだ。主人公が石にされてゲーム内の時間で数年間、操作ができなくなるところや、奴隷になって働かされるところなどは象徴的で、みんなが印象的なシーンとして挙げる場面だが、そうしたストーリーの演出としての部分以外にも、このゲームには致命的ともいえる不自由さがたくさんある。たとえば入れ替わり、立ち替わり登場するNPC(ノンプレイヤーキャラクター)の多さがそうで、プレイしながら、はたしてこのキャラクターはイベントクリア後、将来的にパーティーに加わることになるのかどうか、確信が持てないまま行動を共にする場面がしょっちゅうあるのだ。あるいはそのあたりは『週刊ファミ通』(に僕はその後入って2年くらい働くことになるのだが)とかそういう雑誌で情報を得ていれば違うのかもしれないが、なにしろ当時の僕はしばらくゲームから離れていたこともあり、そういう「勘」みたいな部分もずいぶん鈍っていたわけで、そんな僕からしてみたら、この『5』はずいぶんとゴツゴツした手触りの、スムースさに欠けたゲームに感じられた。モンスターを仲間にできるのは確かに楽しかったけど、その中に最終的なパーティーに残すべき存在がいるのかどうか、それはプレイしながら、常に頭のどこかに残る悩みだった。その、ゲーム的なセオリーに自動的に乗って楽しめない、変に不自由な感じが、僕は『5』の最大の魅力なんだと思う。その「不自由さ」は、僕たちのリアルでの人間関係と、とてもよく似ているからだ。

『4』の記事でも、同じようなことを書いた。そんな「不自由さ」はこの時期の、ゲームがどんな状況でも表現できるようになっていく技術的な発展期の、まさに一瞬の隙間に生じたクリエイターたちの「不自由さ」に呼応したものなのかもしれない。表現したいものと実現可能なものとの齟齬が、位相は違えど、切実なものとしてプレイヤーにまで届いていたんじゃないだろうか。そんな「不自由さ」を感じることのできる『ドラクエ』は、この『5』が最後だと思う。

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『ドラクエ9』やっとクリア [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ9』、やっとクリアした。10日ほどやってた。前回の記事で書いたように、プレイ時間は長いけど、わりとじっくり進めていたので、かかったほうじゃないだろうか。にしても、今回の『9』は……。

いや、『9』の感想は置いといて、まずは『1』から進めている個人的レビューをこなしていこう。今、ここで書くのと、順に進めていって最後に『9』にたどりついてから書くのとではちょっと違うものになっちゃいそうだけど、ここはひとつ、積極的に後者を楽しみにするということで。今回は『3』と『4』を。

3 『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ…』


『1』が、見えない地下深くで進行する地殻変動が地熱の上昇をもたらすかのように、静かに、しかし確実にユーザーの熱狂を膨れ上がらせていったのとは、明らかに違う。その支持を受けて登場した『2』が、期待に違わないどころかいろんな意味で僕たちの予測をはるかに上回る「突き抜けた」作品で、発売後すぐにそのことは広く知られるところとなり、生産が間に合わずオモチャ屋の店頭で切れが続出したのとも、また違う。『3』は、発売前どころか開発中からずっと「お化けソフトの続編」という評判とともにあり、いささか芸のない表現だが、それが「面白い」ものであり、僕たちみんなが喜ぶものであることまでがすでに決められていたような、そんな不思議な状況の中で登場したのだった。冷静に振り返れば、こんなおかしい話はない。著しく公平さを欠いているといわざるをえない。でも、公平であることやフラットな批評的視線を保つことは、必ずしも善とは限らないのだ。とくにエンターテイメントの世界においては。

かくいう僕も、早朝から近所のマルエツのオモチャ売り場が開くのを並んで待ちながら、面白いんだろうなあ、いや、絶対に面白いはずだ、という確信で胸を膨らませていた。予測が外れる気なんてまったくしなかった。でも、さすがにそのときは(それから何年も経つまでは)気づいていなかった。面白いに決まっている。それは間違いない。でも、予想できる面白さなんて、たかがしれているじゃないか。

『3』は、いわゆるゲームとしては恐ろしくよくできている。掛け値なしに、面白い。何年か前にも懐かしくなってリメイク版を再プレイしてみたが、やっぱり面白かった。『ドラクエ』シリーズの中で、万人に自信を持ってオススメしたいソフトを1本挙げるとするなら、僕はこの『3』を選ぶだろう。先に述べたような、大ヒット作の続編というプレッシャーは並大抵のものではなかったはずだが、それに押しつぶされることなく、見事に打ち破って前へ進んだ、力強いワンステップをここには感じとることができる。それは重厚で、とても確かな手ごたえだ。

ところで、たとえば文学の世界には「純文学」と「エンターテイメント」という区分けがあって、その分け方の是非自体が常に論争の種や創作の動機になったりもするわけで、単純な二択として自分の考えを表明することに本来は慎重になるべきなのだが、でもそれはさておき、僕はこの区分け(の有用性)を信じている。だって、『ドラクエ』の『2』と『3』の違いを説明するのに、こんなに簡単な話はないかと思うからだ。

こういうふうに話を展開させていくと、まるで『2』はゲームを超えた名作で『3』はしょせんゲームに過ぎない、という悪口みたいだが、そういう意図はもちろんない。『3』が完成させたゲームシステムはその後のすべての『ドラクエ』の通奏低音として鳴り続け、ときにはそこに何か新しいものを付け足したり変えたりしようとする制作サイドのあがきをあざ笑うかのように、軽はずみな「チェンジ」を拒む強大な壁として僕たちを取り巻いている。生まれた瞬間から明らかな「保守」だった『3』。でも、そんなふうになれたゲームソフトが、はたして何本あるというのだろう?

発売は1988年2月10日。僕は浪人生だった。うろ覚えだが、国立大学を受験するための共通一次試験(現在のセンター試験)が1月の下旬、2つ受けた都内の私立大学が1月末から2月頭。『ドラクエ3』発売はこれが終わってからだったからよかったが、問題はやはり2校受けた国立大学の二次試験だった。どちらも2月下旬で、まさにこの時期は最後の追い込みどころの話ではないはずなのだが、もちろんそんな土壇場のプレッシャーからの逃げ場所として、発売直後の『ドラクエ』ほどうってつけなものはない。クリアまでの数日(4~6日くらいかな?)はまったく勉強になんてならないし、終わってからも、どこか気が抜けたような状態だった。おかげで国立は1校、それも第一志望に落ちちゃったけど(笑)。


4 ドラゴンクエストIV 導かれし者たち


ファミコン最後の作品で、次の『5』からはスーパーファミコンでの発売。そのせいなのかどうか、発売時の騒ぎが社会現象にまでなったのはこのときがピークだった。かくいう僕も、発売日に鼻息荒く購入したのはこれが最後だ。というか、このときまでは最初の入荷を逃すと次までに冗談じゃなく10日とか待たなくてはならなかったりして、その10日後ですら自分まで回ってくるかどうか100%定かではなかったりしたものだが、スーパーファミコンの頃からはどんな人気ソフトでもわりといつでも手に入るようになったからという、それだけの理由だったのかもしれない。

最初に宣言してしまうと、僕はこの『4』がかなり好きだ。でもそれは「評価している」とか、いちばんの名作だとかいった意味とはちょっと違う。さりとて、ごくプライヴェートな思い出のようなものと結びついた私的な評価ということでもなく、あくまでもゲームとして、他のゲームと比較して好みだということだ。

最初にプレイしたときからずっと感じているのは、この作品には、何か新しいものにチャレンジしようという意気込みが隅々まで溢れているという感覚だ。それも、たんなるシステムがどうとかグラフィックがどうとかいう新しさではなく、もっと根本的な、うまくいえないけどまったく新しい遊びを考えるときのようなクリエイテヴィティの使われかたが、ここにはあるような気がしてならない。それはたぶん、『3』で予測できる限界の高みにまで達した『ドラクエ』を、次はどうしたらいいのかという問題から逃げなかったことの証なのだと思う。極端なことをいえば、こういう『4』を作るか、でなければシリーズを『3』で終わりにするか、そういう選択だったんじゃないか。そんなふうにすら思うのだ。

ただし、その試みが成功したかどうかはまた別問題だ。ストーリー的にもゲームそのものとしてもかなりテイストの違う5つのパートから成るオムニバス形式といい、パーティーの仲間にコマンドが出せないAI戦闘といい、どちらもアクの強いもので、そして結局のところ、その後のコンピューター・ゲームの本流とはならなかった。批判も多い。ストーリーの押し付け。1~4章の主人公たちが勇者のもとに集結してパーティーを組んで巨大な敵に立ち向かう「本編」ともいうべき第5章が、おそらくは容量の関係もあったのだろうが、食い足りない印象で終わってしまう。AIのダメさにイラついた記憶しか残らない。etc……。

でも。と僕は思う。ここには、「次はいったいどうなるのだろう?」という、エンターテイメント作品に最も大切なものがあるんじゃないだろうか。ここでは、『ドラクエ』の『1』~『3』をはじめ、たくさんのゲームをプレイしてきた過去の経験知からの予測を、簡単には立てさせてくれない。誰よりも、作り手側が、そのような古く、だからこそ確実な遺産を封印し、なかったものとして次の一歩を踏み出そうという気概に溢れている。それは、最終的に生じたさまざまな瑕疵を認めたうえで、それでもやはり、他の何よりも重要なことだと思う。

夢中でストーリーを進めているうち、あちこちのキャラクターに乗り移っていた自分の視点が、いつのまにか主人公を中心とした複数を統合したもの(それは、他に表現できる言葉のない、独特なものだ)へと変わっているという体験を、他のどんなジャンルのエンターテイメント作品で得ることができるだろうか? 仲間の行動をAIに任せるしかない戦闘が、いかに思い通りにならない僕たちのリアルと似ていることか。そこには、ゲームとしてのデキとはまた別次元の、プレイする楽しさが存在する。

この作品は、PSとDSで、それぞれリメイク版が発売されている。僕はそのどちらもプレイしていないが、最初に出たPS版では、戦闘はAIの他に命令することもできるようになっているとのことだ。たぶんDS版も同じだろう。ユーザーの選択肢を増やし、自由度を高めることは、現在のところゲーム作りの本筋ともいえる流れとなっている。それはいい。だが、かつてなかったものに、安易に後からそれを加えるのは、少なくとも商品作りではあっても、作品作りではない。古典小説を、主人公が暗いという評判があるから少し明るい性格に書き直して発表するようなもので、いや、それがいけないと言っているわけじゃなく、先行する作品に対峙するそれなりの覚悟とともにあればいいのだが、まるでどんな切れ味のいいナイフよりも10徳ナイフの方が喜ばれるに決まっているとでもいうような安直な盲信が、我慢ならないのだ。制約の多かった、不自由な昔をよしとするある種の懐古趣味で言っているわけでは、断じてない。そういうことじゃない。そういうことじゃないんだ。

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ドラクエ9やってます [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ9』やってます。いい歳してなんだが、だって好きなんだもん。年齢的にド真ん中世代よりちょっと上なため、心のベストは『2』で、『5』あたりになると早くも思い出からもどこか微妙に熱さが失われている者にとってみれば、ゲームシステムの複雑化は興味深くプレイし続けるための唯一の方策で、たしかにこういう方向へ行くしかなかったんだろうな、などとエラそうに批評の一つもしてみたくなるってもんだが、そういうのみんなやってるよね。だからここでは、超個人的な過去の『ドラクエ』評をやってみるが、それとてみんながこぞってやってるのは百も承知している。勝負はどこまで個人的になれるかにかかっているわけだが、しかしそれはそれでしんどいもんだね。

1 『ドラゴンクエスト


プレイしたのは高校3年生のとき。それまで『スーパーマリオ』とか『ファミスタ』とかしかやってなくて、それほどゲームっ子というわけでもなかったのが、いきなりハマった。思うに、小学校中学年でブロック崩し、高学年でインベーダーや平安京エイリアン、パックマン、中学生でゼビウスに出会った僕たちの世代は、心のどこかに、ゲームとはなにがしかの代償(100円ってことなんだけど)を支払って挑むもの、という考え方が刷り込まれているんじゃないだろうか。純粋なゲーム内容だけでなく、その外の社会的な部分も含めて熱くなるもの、とでもいうか。そういう意味で、家庭でいくらでも、好きなだけゲームができるファミコンという存在に、じつはどこか本質的に相容れないものを感じていたような気がする。

でも、『ドラクエ』は見事にそんな僕のハートを鷲掴みにした。そこには、『時間』をはじめとしたある種の社会性を犠牲にして挑まなければ太刀打ちできない何かが、確実にあったのだ。確か徹夜でプレイして、学校行ってもずっと寝ていて、放課後はバンドやギターの練習したりして、夜中はまた『ドラクエ』という日々が続いていたと思う。世代的なものなのか、友達がそういうタイプじゃなかっただけなのか、周囲にプレイしている人は一人も見当たらなかった。ただひたすら、一人で夜中にゲームと向き合った記憶のみが、ゲーム内容の単調さとともに強烈に刻まれている。こんなの、初めてだった。本当に。


2 『ドラゴンクエストⅡ 悪霊の神々』


高校3年生の終わり、卒業間際。購入に際して大騒ぎがあったかどうかは、正直覚えてない。どうだったっけ? 最初から浪人するつもりでのんびり構えていた(ひどいね)ため、受験との兼ね合いに関しても、驚くほど記憶がない。『1』で感じた、ゲームが本質的に求める「社会との断絶」が、僕に関してはこのとき極限まで押し進んでいたから、というのはあまりにもキレイすぎる説明で、かえって嘘くさいかな。ともかく、(個人的にも社会的にも)時代背景と無関係にゲーム内容のすごさだけがいつまでも印象として残る、そういうゲームだ。小説や映画の名作から受けるのとまったく等質・等量の衝撃を受けた、とでもいうか。いや、比喩ではなく、本当に同じなんだってば。ちなみにこの『2』は当時、日本SF大賞の候補にノミネートされている。ゲームが候補になるなんて前代未聞だったが、もっと重要なのは、その後も例がないという点だ。文芸的な表現の深みと、ハリウッド的なエンターテイメント性が、ともにインタラクティヴなゲームというジャンルで実現したというのがほとんど奇跡だったということがよくわかる。

この『2』のすごさ、他の作品とは違う点を言い表そうという試みはあちこちで行われているが、僕がいちばんピンときたのは、高橋源一郎がエッセイ「ドラゴン・クエストⅢ。物語は勝利したか」(『文学がこんなにわかっていいかしら』所蔵)で、ある蕎麦屋の女将の言葉として紹介した「はっきり言ってⅢは面白くなかった。だって、シドーは恐かったけど、ゾーマは恐くなかったよ」という表現だ。ホラー映画的な恐怖ではなく、なにかもっと根源的な、システムや規則そのものが足元から崩れていく恐怖。そういうものに出会える機会って、それほどあるわけではない。

なんか長くなったので、『3』以降はまた日をあらためて。続く、ってことで。
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